
光二は、長崎国体に神奈川県代表として出場もして平塚ろう学校を卒業。四十六年三月、国家試験に合格し、いよいよ世の中に出て修行することになった。店によってそれぞれ経営方針が違うので、二年交代ぐらいで店を替え修行するのがよいと考えた。
まず日吉理容店をかわきりに大船、戸塚と変わり、最後の仕上げは大和町のモナコ理容店に、「店を持てるようなたくましい経営者に育ててください」と、お願いしました。
「ようは本人次第だ。自分の店を持ちたいという熱意にほだされ、私も一肌ぬぐことにしました」とモナコのご主人は言ってくれた。それは、光二の二十七歳のときであった。
今度は店の心配である。よしんば、私たちが死んでも土台だけはしっかりした建造物を建てておきたいと、店の部分は重量鉄骨にして頑丈な立派な建物ができた。
店の内部装飾、理容器具、そのほか雑器具から店の開店までの諸道具一切はまとまった。
五十四年三月五日。さあ、開店だ。「お客さまは来てくれるだろうか。開店のチラシは十分に出したし、なすべきことは全部やった。果たして借金は返していけるだろうか」。
私の心配はまた続いたが、晴れて開店できてホッとしたのであった。
四十六年から五十四年まで九年間、光二はくじけないでよく頑張ってくれた。「ろうあ者と言われながら、光二は本当に我が子ながらよくやった」と感謝したい。長男は大学を卒業して雪印に入社したが五十七年四月退職。光二の面倒を見るために五反田に飲食店を開き、他人にはできない兄弟愛を示してくれる。
店は完成したし次は光二の結婚問題。大宮ろう学校にお願いしたり伊藤先生に頼んだりして、
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